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ハイコンテクストを演出して、ローコンテクストな分析を行う

與那覇潤『日本人はなぜ存在するか』の中に「グローバル化とは、ハイコンテクストだった社会(日本)がローコンテクストな状態に移行していくこと」と書いていた。
英語ができようができまいが関係なく、コンテクストを共有しない他人や集団に対して自分の立場や利益を主張することがグローバル化ということであろう。
ここではグローバル化とは離れてグループインタビューの世界にこの対立概念を当てはめてみたい。
対象者の集団(グループ)は、最初はローコンテクストであるのが当然である。
そこで、
・自己紹介などで初対面の人たちで共通のコンテクス作りを行う。
・モデレーターから目的・主旨の説明して、コンテクストの方向性(限定)が告げられる。
ここまでは極めてローコンテクストな集団である。ここからモデレーターは、
・この集団(グループ)から自己生成するコンテクストを高度化していく
・さらにテーマに沿ったコンテクストに仕上げていく
ことに留意してグループをハイコンテクスト化する。
そして、デブリーフィングで
・ハイコンテクストな状況を確認する。
・鏡を隔てたクライアントにハイコンテクストが共有されてるか確認する。(そうだよね!という発言が出るか)
ことで生成されたコンテクストを確認する。
最後に報告書作成するときは、
ハイコンテクストな知見・発見をローコンテクストに記述することになる。
インタビューに参加しなかった人たちにも共感的に理解ができるように報告書を作成するのである。

分析とは、ハイコンテクストなインタビュー結果をローコンテクスト化する作業なのである。



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めでたさもちゅうくらいなりおらがはる

小林一茶は子供の時からあまり好きになれなかった。
子供心に「何故、そんなにすねている?」という感覚があったのだろう。
今、ググったら、まあ、不幸と災難のデパート(これは死に表現)のような人生で臨終は大火で焼け出された土蔵の中だったらしい。
そんな時、隣家の餅の匂いや団欒の声を聞けば拗ねるのは無理もないかも知れない。
ただ、そういった境遇とは別に一茶には「拗ねた」気質があるように思うが。
ちうくらいのめでたさの、中くらいも現代人の中くらいよりももっと下の意味らしい。
だから「中くらいならよし」とする解釈は成り立たないようだ。
そうなるといよいよ拗ねに拗ねた句ということになる。

正月は昨年1年がどんなに苦難に満ちたものでも除夜の鐘でゼロクリアする優れた浄化装置である。
このゼロクリア思想がないと人間は押しつぶされてしまって生きていけない。
ところが現実の生活は大晦日を越えて正月になってもひとつもクリアされない。借金は利子つきで残る。
一茶でなくても「これっぽっちもめでたくはない」のである。

日本は市場全体が一茶のいう「ちうくらい(ちっぽけ)」になりつつある。
こういった市場で拗ねずに生活(仕事)していく術を身につけなくてはいけない。
成長しか知らない我らの世代の晩年の課題であろう。

雪の音

「ピッチピッチちゃっぷちゃっぷランランラン」の続き。
お迎えに来てくれるお母さんが持っているのがジャノメ傘。
子供の頃、さした記憶がある。
家では「ばんがさ」と呼んでいたがジャノメ傘と違うのか同じなのかよくわからない。
そのころはコウモリ傘が新しくカッコよかったのでばんがさは貧乏人の傘だった。
今、思い返すとばんがさは重くて大きかった。
竹細工の見事さ、張ってある紙の色、適度に光を通す薄さ、などは真っ黒いだけのコウモリより数段上の価値があるが、それも大人になってから気付いたこと。

ばんがさのよさは「音」にもあった。
紙に油をしいて防水していたので雨があたると「ぱんぱん」というか独特の軽い、明るい音が楽しめた。
激しい雨かやさしい雨か眼だけでなく耳でも感じることができた。
そういえば、当時の家はトタン屋根だったので家の中にいても雨の様子がよくわかったものだ。
夕立の時は雷の音もかき消してしまうトタン屋根の雨音。

最近の家は音を出さない、入れない機能が充実してウチとソトを完璧に分けてしまう。
だから天候を五感で感じることがしずらくなっている。
その方が「生活」は快適になる。
もう、方丈記の世界ではない。

20年くらい前、日本酒のネーミング開発で、200くらいの既存のネーミングを分析し、新しい日本酒の名前を提案した。
それが「雪の音(ね)」
クライアントも気に入ってくれたが、既に他社が登録していた。
事前にチェックせずに開発していたという牧歌的な時代。
その時「女なかせ」というネーミングはどうにも分析できなかった。
日本酒は西洋のマーケティングという思想にはなじまない。のかもしれない、と思った。

雨、雨、ふれふれ

昨夜、駅から自宅まで雨に降られた。
駅前の本屋で少しやり過ごしたのでたいした濡れかたではなかった。
歩きながら、最近「お迎え」を見ないなと気づいた。
田舎の小学生だったころ都会から転校してきた子の母親が雨の日、傘を持って迎えに来た。
生まれて初めて「お迎え」を見たガキどもは声を限りに冷やかした。
それ以来、「お迎え」がちょっとしたブームになったが、うちでは1回もなかった。
雨が降れば濡れて帰るのが当たり前だった。
校庭の水たまりをバシャバシャ言わせて帰るのが楽しかった。

で、突然、
「あめあめ、ふれふれ母さんが、ジャノメでお迎えうれしいな、ピッチピッチちゃっぷちゃっぷランランラン」が浮かんだ。
この詩は傑作なのだ。
特に最後の「ピッチピッチちゃっぷちゃっぷランランラン」が最高。
ここでググれば、何かわかるのだが年寄りの好奇心はそれほど強くない。

 *駅で傘を持った「お迎え」がなくなったのはクルマのせい、と今、気付く。
  クルマはやっぱり情緒がない。

「かわいい!」はおバカな高校生の表現ではない

今回は大学生3人と主婦1人、OL1人の計5人にインタビューした。
まとめとして「かわいい」という表現をどう自覚的に捉えているかインタビューした。
結果が、
・感覚として漢字表現は馴染まない。ひらがな、もしくはカタカナ。
・使用場面が広がった
・使用目的(対象)が拡がった
・使用(許容)年齢が高くなった
・相手との関係性を保持するのに有効な表現
ということであった。

「カッワイ~!」という表現から「かわいい」に変化しているのであろう。
つまり、おバカな女子高校生が連発している意味不明のコトバというオヤジの思い込みは単なる思い込みで、表現として日本語のなかにきちんと定着してきている。(感嘆詞から形容詞)
使用場面が同性同士の会話から異性や年齢が上の人との会話でも使うようになったし、「かわいい」とする対象も目上の男性にまでつかうようになった。

「かわいい」の便利なポイントはやわらかい自己主張ができることと、ゆるやかな同調を求められることで会話が極めてスムースに進行するとした。
これは分析ではなく、大学生女子が発言した事実である。
「かわいい」は好きの代替表現である。
洋服の話で「これが好き」を「これ、かわいいよね」と言えば、相手も「そうね」と同調しやすくなる。
それを「これ好き」と判断(自己主張)されてしまうと、返答に窮して会話が途切れる危機に突入してしまう。
好きという判断には、判断でコミットせざるを得なくなる。
「これ、かわいいよね」は「これ好き」の自己主張をやわらかく包んでくれて、「ウーン?そうね」同調とも否定ともとれるゆるやかな返答ができるのである。

こうして、空気は流れ会話ははずむ。
この流れの潤滑材として「かわいい」は高度に純化されつつあるのだろう。
プロフィール

aurak

Author:aurak
名前   石井栄造 ・ 男性
仕事   マーケティングリサーチ
住まい  東京都杉並区
http://www.auraebisu.co.jp/

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